Webと自転車のはざまで

自転車と仕事を愛する男、mattaの日記のようなものです。

夜行

首都圏と北陸を長年つないできた、夜行の特急「北陸」と急行「能登」が来年3月でリタイアとなるそうだ。新幹線開通まで持つかと思っていたらずいぶん早く別れの時が来てしまった。といっても最近ぜんぜん乗ってないけど。(汗)そして年末のこの時期になると帰省の際のすし詰めの「能登」や、とうの昔になくなった「越前」を思い出す。

寝台特急「北陸」急行「能登」3月廃止 JRダイヤ改正
http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY200912180409.html

80年代前半の当時は、飛行機なんて貧乏学生には高くて以ての外で、学割ががつんと効く国鉄しか選択肢が無かった。昼間の特急「白山」もあったけどなぜか夜行を選んでいた。夜行はなんと言っても宿代が浮く。帰省の場合はそんな心配はないが、私の貧乏旅には夜行が必ずセットになっていたから自然と夜行に乗った。

今では少なくなったと聞くが、鈍行の夜行もたくさんあったのだ。東京からだと有名なのが品川発の大垣行き。新宿発の信州行き。なぜか東北方面は鈍行の夜行が無くて、朝一番上野出発で青森にたどりつけたのだろうか?記憶がない。しかし、逆は可能だった。函館0:30発?の青函連絡船があって上野まで丸1日かかってたどり着けた。なぜ、1日にこだわるのかというと、知っての通り「青春18切符」がそのころ登場したのであった。

今はいくらなんだろう?当時は1万円で5枚綴り。1枚2000円で1日乗り放題。最長で先の大垣行きを使って、東京から1枚で北九州あたりまでいけたんではなかったか?鉄道だけでなく、先述の青函連絡船や四国と結ぶ宇高連絡船でも使えた。たしか高松発高知行きの夜行鈍行もあった。金比羅さんの石段で疲れはて琴平駅でこの夜行を待っていたら、金比羅さんのさらに奧にある奧社まで行ってきたという学生と一緒になって悔しい思いをしたっけなー。当時珍しくリクライニングで高知までぐっすり眠れたのを今でも覚えてる。

リクライニングじゃ無くてもぐっすり眠れる「技」があった。ボックスのシートは外せるので片側に一個空き缶を縦に挟むのだ。そうすると後頭部をひじ当てに乗っけて、ひざを曲げるだけで男でも簡易寝台が作れるのだ。2個の方が良いと始めはそれでやっていたが、かかる重力が分散するせいか揺れで轟音とともにシートが外れた。結局、先輩のおじさんの真似をして空き缶1個でよく寝ていた。紀伊半島にも夜行があった。おもにつり客のための天王寺?発着の珍しい周回列車だったと思う。これは途中下車せずにぐるっと回った。閑だったねー。窓から入ってくる潮の香りが新鮮だった。あと珍しいところでは鈍行の寝台もあった。松江の親戚の叔母さんからお小遣いもらったので豪勢に寝台を使わせてもらって京都まで。北海道にも函館から札幌まで走っている鈍行の夜行があった。たしか吹雪の真冬で窓が凍っていた。向かい側?に座っていた赤ちゃんを抱いた母親が何の躊躇もなく胸を出して乳をやっていたのを今思い出した。

とりとめもなく書いてしまったが、鈍行は基本ローカル線なので、地元の人が利用する。だからいろんな方言を生で聞けた。小説を読みながら列車に揺られ、地元の行商のおばちゃんからお菓子をもらったり、わかりにくい方言の話を聞いたりしながら、一番安い幕の内弁当をパクつくのが至福の時だった。今はそんな旅は時間があっても、体力がないのでとてもできない。予算にキャップがかかったとは言え、北海道、九州、北陸に新幹線はつながっていく。かろうじて残っている在来線は、私の学生の時のような変態ロングライドはもちろんのこと、都市間交通としての役割もなくなり衰退の一途をたどるだろう。新幹線に行商のおばちゃんは乗ってくるのだろうか?もうそんな人もいないか。でも、新幹線だからこそできるおもしろい行商もあるかもしれないなあ。